以前と比べて「体罰で処分される」とか「痛ましい虐待」などのニュースが
増えている気がします。
ふとした会話のなかで、自分が悪ガキだった頃のことを思い出していました。
「体罰はNG」「教育という名の虐待なんて論外」が大前提。
いまのご時世、教育現場での体罰はNGです。
ニュース番組などで、体罰の場面が撮られた動画を見かけることがありますが、
問答無用で即退場=辞任・退任・クビ
となることが多いですね。
これだけ一般的に「問題」とされているなかでは、仕方ないかもしれません。
さらには、最近見かけることが増えている(気がする)
教育・しつけという名のもとに行われる「親による暴力・虐待」
なんて、最悪ですし、決して許されるものではありませんね。
ニュースなどを見ているだけで、かわいそうで辛くなります。
このような「虐待」はまったくの論外ですし、
「体罰」がNGということが大前提ではありますが、
あえて自身が受けた教育を思い出してみました。
昔は普通に殴られていました!?
自分自身の子どもの頃を思い出してみると、
現在で言うところの「体罰」というのは、普通に存在していました。
学校の先生から、部活の先輩から、というのもありましたし、親からも含めて
悪いことをしたら「げんこつ」「ビンタ」なんて、
自分だけでなく周囲の友人を見渡しても、結構当たり前のことでした。
そのなかで、ふと思い返してみると
・自分にとってものすごく意味があったもの
・無意味だったもの
がありました。
意味があったもの
・小学生の頃、野球チームで同級生をバカにするような態度を取ったときに監督をしていた父親から殴られた。
・中学生の頃、校内でやってはいけないと言われていたことをやってしまい、それまで大好きだった生活指導の先生から殴られた。
無意味だったもの
・小学生の頃、学校の廊下でボール遊びをしていて担任の先生からビンタされた。
・中学生の頃、部活で先輩からケツバットされた(他の同級生を含めて、理由なし)。
信頼関係の有無次第
意味があったものと無意味だったものの違いは何だろうか?と考えてみると、
「信頼関係」の有無次第
だったのかなと思っています。
「意味があったもの」は、信頼している相手から
「越えてはいけないラインを越えたとき」にこっぴどく叱られたもの
という共通点があります。
当時も納得感がありましたし、今から振り返っても「仕方がない」「むしろ有り難かった」とさえ感じています。
一方、「意味がなかったもの」はそもそも怒られる基準が分からなかったり、怒られているのかどうかも分からなかったり。
当時も反発していましたし、今から振り返ってもイラっとします。
ただ、もしかすると、好きな先生だったり好きな先輩だったら、そんなことを考えることもなかったかもしれません。
自分のなかで信頼していない相手からだったからこそ、の感情だったのかなと。
ハラスメントの問題しかり、ですが、結局のところ
「受け手側」がどう感じるか次第
というのが難しいところなのでしょうね。
ちなみに、信頼関係があれば「殴ることがOK」と言うつもりはありませんので、念のため(今のご時世ですから)。
越えてはいけないラインの目安をどのように提示するか!?
このように、良くも悪くも、昔は信頼関係があることを前提として
「越えてはいけないライン」
を教える方法がありました。
現在では、どのような方法で教えるのがよいのか。
本当に難しい問題だと思います。
テレビ番組のコメンテーター、教育者と称される人などは
「話せば分かります!」
と言っていますが、本当でしょうかね。。
少なくとも私が子供のころ、言われただけで分かっていたか?と考えると無理だったような気が・・・
また最近では、先生が手を出せないことをいいことに
あえて挑発するような生徒がいたり、やりたい放題になっている
ということを耳にすることもあります。
親が「本当に」教育のために子供のお尻をひっぱたいたとしても、
それを聞いた人が「虐待では?」なんてことを言い出しかねない世の中です。
ひっぱたくのがいいのか悪いのかの議論は別として、です。
私自身、明確な解は持ち合わせていませんが、
「越えてはいけないライン」
の目安をどのように伝えていくべきなのか、考えていく必要があると考えています。
何をどう伝えるにしても、信頼関係がなければ伝わらない。
というのは、学校や家庭だけの話ではなく、会社でも同じことだとは思います。
信頼関係を築いたうえで、いかに相手に伝えていくか。
なかなか難しい問題ですね。
【編集後記】
昨日は顧問先を訪問したついでに、以前住んでいたあたりを車で通ってみました。
半年ちょっとしか経っていないので、雰囲気もほとんど変わらず、あまり懐かしいという感じにもなりませんでした。。
【昨日の1日1新】
「1日1新」とは→詳細はこちら
いろはす もも